聖道門みたい

この言葉は大谷派のある住職のことばである。
主語は 本山の報恩講は となる。
幾度となく本山の報恩講にお参りしたが、いつも気になっていることがある、それは勤行中や法話中でさえも、下陣の参拝者の私語が
多いことである。門徒だけかと思うと、明らかに僧分の方々も同様である。こんなことには 道俗時衆共同心 する必要はありまん。
この原因を考えるに、法要をするのは内陣の方々のみで、下陣の参拝者はただの参観者化させられているためでは無いだろうか。先述の住職さんも「本山のお勤めは難しくて僧族でもついていけない」を云われています。確かに末寺では勤めない、重い勤行を本山で行うことには賛成ですが、すべてそれ一色で、真宗の特徴である参加型宗教を排除してしまうのも、勿体無い話である。
私としてもアイデアを本山に具申してはいるのですが、何かいい案をあみだして欲しいものである。浄土門らしく・・・・
                      釈宝樹